想像の斜め上から

ymsr追悼記事のためだけに立ち上げたブログなので今後更新はないと思われる。タイトルは、昔ymsr氏が書いていたblogから拝借。

命日を迎えて。

久しぶりに更新します。

というのも、今日12月3日は山城先生の命日なんですね。

1年前の今日、山城先生は亡くなった。

しかし1年前の私はこの時、それを知る由もなかった。

この1年、考えるのは、

どうして死んでしまったのか…

あんなにも温かい人達が周りにいたのに…

どういう気持ちで、どんな思いで最後の日を迎え、その場所へ向かったのか。

どうして自分はもっとこまめに連絡をとらなかったのか。

主にこればかりでした。

家に遊びに来た時にここの椅子に座ってたなーとか。

ここの道をビール飲みながら歩いて、このへんに住むのもいいなーなんて話してたなとか。

一緒にここ来たなーとか。

これもらったなーとか。

なにかにつけては思い出す日々は変わらない。

だけど、山城先生のいない日々が当たり前になりつつある。

妹さんから聞いた時も、

彼の仕事仲間の送別会に混ぜていただいた時も、

まだ消化できていなかった山城先生の死を、自分の中でようやく受け止められるようになったのかも。

でもやっぱりまだ時々、普通に会える気がしてならないです。

会いたいなー、遊びたいなー、話したいなーってすごい思う。でももう涙は出なくなりました。

送別会のビンゴで貰った形見の絵画、宝物です。(しかし遺品ビンゴって…前代未聞すぎて先生の偉大さを感じずにはいられない)

オチもないし、文体もメチャクチャですが、今日この日の正直な思いを書いてみました。まる。

親友のymsr先生が死んだ。

ymsrさんと初めて会ったのは、たぶん2004年の12月くらい。私が当時学生で、バイトしてた店によく来ていた。んで2005年4月くらいに@rimirimiと3人で遊びに行ったのが、初めて店以外で会ったときかな。そのときに「経験人数教えて」とかいきなりゲスいこと聞かれたのは今でもよく覚えてる。

 

それからはほんとによく遊んだ。色んなところに行った。特にカラオケとメイド喫茶は数え切れないくらい行った。@mikimofuと4人で鍋したり、高いとこが好きだから色んな展望台にもよく行ったし、マクロスとかグレンラガンとかけいおんの映画みに行ったり、コミケもいつも一緒に行った。新橋は混んでるから豊洲で待ち合わせるのが定番で、ゆりかもめの先頭陣取って、帰りはららぽーとをぶらぶらしたりymsrさんの恋愛相談にもよく乗った。でもいつも成就しなかった。

彼がビリーズブートキャンプのビリー隊長のコスプレをしたときはだいぶ面白かった。 ハロプロのコンサートや、空港に飛行機見に行こうぜとか話してたけど、それは叶わなかった。

 

2008年頃、Twitterに誘ってくれたのもymsrさんだった。当時まだあまりやっている人がいなくて、私がつぶやく小さなことにいつもリプライをくれた。 2009年に転職する時、ちょうど同じタイミングで彼もD社へ転職が決まっていたので、「緊張して眠れない」などと言い合った。

 

12月に入って、彼が全然TwitterFacebookを更新していないことに気づいた。携帯をなくしたり壊したりしたのかとも考えたけど、それならそれで「携帯なくしたけど、私は元気です」とか書き込むに違いないと思い、違和感を感じた。LINEも既読にならないし、嫌な予感がして、電話をかけてみた。これで出なかったら、家で一人倒れているかもしれないから、明日の朝一でマンションにいってみようと思った。すると女性が出たので番号を間違えたのかと思ったが、妹さんだった。12/3に事故で亡くなった。葬儀も終わったと。それ以上聞くことができなかった。心臓がバクバクして、手が震えて全身の力が抜けた。

 

人はいつか死ぬ。そんな当たり前のことはわかってるけど、こんなに突然に、大事な人を失うことになるなんて思ってもみなかった。大事な人は大事にしないといけないし、自分自身も大事にしないといけない。この2ヶ月、そんなことをよく考えるようになった。

 

通勤途中、秋葉原やD社の最寄り駅を通りすぎると毎回ymsrさんを思い出す。 正直まだ受け入れきれてないけど、一緒に過ごした時間は一生忘れない。

 

こんなに早く逝ってしまったこと、きっと本人が一番悔やんでるのではとも思ったけど、その時の状況を楽しんでしまえる人なので、今頃もしかしたらあの世を楽しんでいるのかもしれないななんて、しょーもないことを考えたりします。